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侍と浪人


侍

日本の歴史的な事柄で、世界に最もよく知られていること、それはサムライと浪人でしょう。サムライとは、武士の中で上流階級のことです。武士とは、戦士という意味で、上流から下流までいました。

日本の古代は、公家(くげ)と呼ばれる貴族が支配していました。そのトップは天皇でした。侍はそれら貴族たちに仕える人々でした。しかし、次第に力を持つようになり、12世紀にサムライが政権を握りました。これはサムライによる革命と言えるでしょう。

徳川家康ただし、天皇と貴族たちは京都に置かれて大切にされました。サムライは、昔から日本の所有者である天皇から、政治を委託されたことにしたのです。しかし、天皇や貴族が近くにいると厄介なので、サムライは首都をそれまでの京都から鎌倉に移しました。それが1185年に発足した鎌倉幕府です。ここは今の神奈川県鎌倉市です。

その後、サムライたちによる権力争いが繰り広げられましたが、徳川家康というサムライが権力を握り、1603年に現在の東京にあたる江戸に幕府を映しました。その後、265年に渡って安定した侍の時代が続きます。


武士は人口の1割弱

江戸時代には、おおまかに武士、農民、職人、商人に分かれていました。武士のうち、下級武士を足軽(あしがる)と呼びます。その当時の人口のおよそ1割弱が武士、8割が農民、残りの1割が職人と商人でした。この身分は基本的に、親から子供に受け継がれる世襲制でした。

武士は主人に絶対服従し、命を預けました。武士の特権として、苗字を名のることと、刀を持ち歩くことも許されました。武士が大きな失敗を犯したときは、死んで責任を取らなければなりませんでした。その場合、下級の武士は人前で死刑にされました。しかし、武士の中でも上級の侍は、自分で腹を切って死ぬ「切腹」が許されました

サムライは、領地を武力によって治め、税金で暮らす支配階級でした。サムライが治める領地は、「藩」(はん)と呼ばれ、今の県に相当します。

藩のトップは、「大名」(だいみょう)と呼ばれ、今の県知事に相当します。大名に仕える武士の中で、上流階級がサムライです。そして大名は、首都の「江戸」(えど)にいる武士のトップである「将軍」(しょうぐん)に仕えていました。今でいうと、将軍は総理大臣か大統領で、サムライは大臣か官僚、地方議員、地方の上級公務員です。その頃、政府のことを「幕府」(ばくふ)と呼んでいました。将軍は政治のトップでしたが、一方で、日本の所有者である天皇がいました。将軍は、名目的に天皇から国の統治を任されていたことになります。

武士の「武」は、右上の冠が武器を現わし、左下の止が進むことを表わします。すなわち、武器を持って進む人、戦士のことです。一方、サムライを漢字で書くと「侍」となります。右側は偉い人、左側はそれに仕える人を表わしています。

サムライは大名に雇われ、大名は将軍に雇われていたのです。使える相手のことを「殿様」(とのさま)と呼びます。地方の武士にとって「殿様」は大名のことであり、大名にとって「殿様」は将軍のことです。このためサムライには、仕える殿様への絶対的な忠誠が求められました。それは命を掛けたものです。

参勤交代 大名行列幕府は大名に対して、1年を江戸で将軍に仕え、1年を地元に戻して統治させる参勤交代(さんきんこうたい)を繰り返しました。将軍の城である江戸城には、地方から来た大名がいました。また、恒常的に将軍に仕える旗本(はたもと)と御家人(ごけにん)というサムライもいました。旗本は今なら大臣か省庁の事務次官や局部長、御家人は課長や地方の県会議員クラスです。すなわちサムライとは、統治者のことだったのです。

サムライと今の政治家や公務員の違いは、サムライは命を掛けて殿様に忠誠しており、失敗したときに「切腹」して自殺しなければならないということです。場合によっては、自分だけではなく、家族皆が根こそぎ死刑になりました。このため、サムライには常に緊張感があったものと推測されます。

仕える人のいない浪人

一方、浪人とは、仕える人のない武士のことを指します。たいていは下級武士で、サムライではありませんでした。浪人たちは、武士階級ではあっても、農業や商工業に従事しなければなりませんでした。

武士の中では上流のサムライが、浪人になることは、ほとんでなかったようです。武士は全人口の1割ほどいましたが、サムライとなると合計8万人ほどで、当時の3000万人くらいの人口比では、0.27%でしかありません。相当な特権階級だったのです。

ただ、サムライが全く浪人にならないかと言えば、そうではありません。大名の不祥事によって、幕府から「お家取り壊し」(おいえとりこわし)になることがあったからです。これは、大名が解雇されることで、たいていは大名は切腹、家族も死刑になりました。そして、その大名に仕えていたサムライは解雇されました。忠臣蔵の赤穂浪士が良い例です。

大阪城浪人になると、藩や幕府からの収入が無くなり、生活が苦しくなります。そこで新しい大名を探します。戦争が絶えなかった時代には、各藩が浪人を採用しましたが、江戸時代になって社会が安定すると浪人は再就職先を見つけるのが大変でした。剣道の道場や寺子屋を開いたりして成功したサムライは少数派で、大多数は工芸や商売を行ったり、あるいは農民になりました。

サムライによる日本の支配は700年近くも続きました。しかし、1968年に明治維新(めいじいしん)という革命が起き、江戸幕府が転覆すると、サムライという世襲制の身分はなくなりました。日本は西洋諸国に負けないため、西洋風の民主主義を取り入れて、身分差別の無い競争社会に向かったのです。

47 ronin

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samurai wikipedia


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