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にっぽんの壷――浮世絵(うきよえ)は「ジャポニズム」の象徴

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写真 "富嶽三十六景 神奈川沖浪裏" 1831-1835年 葛飾北斎 

日本カルチャーの中で現在、世界的に最も人気が高いのはマンガとアニメですね。ゲームにしても、「遊べるアニメ」と言えるでしょう。日本語を学ぶ学生たちの中にも、日本のマンガやアニメのファンになり、日本に興味を持った人たちが多いようです。

マンガやアニメと同じように、19世紀後半に欧州で日本文化の大ブームを巻き起こしたものがあります。それは「うきよえ(浮世絵)です」。

浮世絵の「うきよ(浮世)」とは、「今の世の中」という意味です。その名の通り、世の中の様子を描いた絵です。ただし、「絵」とは言っても、ほとんどの浮世絵は、木版画で刷ったものでした。


浮世絵は庶民の文化

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大和絵 "風神雷神図" 1624年頃

日本には古代から貴族や侍の文化があり、絵画も大和絵(やまとえ)と呼ばれて、上流階級のためにありました。ところが、江戸時代になって、庶民文化が栄えるようになり、庶民も絵を楽しむようになりました。それが浮世絵です。

17世紀半ばに浮世絵が登場します。その時はまだ、肉筆画でした。肉筆画は、作家が一枚ずつしか描けませんので高価なものでした。そこで、もっと多くの人々に浮世絵を楽しんでもらえるように、木版画が使われるようになりました。木版画なら、作家が原画を描いた後に何百枚でも刷ることができます。

17世紀の後半から18世紀の始めにかけて、「にしきえ(錦絵)」と呼ばれるカラー木版画の技術が確立しました。これはきれいなカラーの浮世絵のことです。この後、浮世絵はとても美しくなり、庶民の間で親しまれるようになります。


歌麿(うたまろ)と写楽(しゃらく)

utamaro浮世絵は、当時の歌舞伎俳優や、相撲取りなど、スターを描いたものが多く、そのファンたちが買いました。今のブロマイドと同じです。その代表画家は、「うたがわ・うたまろ(歌川歌麿)(1753―1806)」です。繊細な線を使って、美人の絵を描くのが得意でした。 (写真 "寛政三美人" 喜多川歌麿)



syaraku歌麿が活躍していた頃、彼に対抗して「とうしゅうさい・しゃらく(東洲斎写楽)」という画家が現れました。写楽は、モデルの俳優たちの特徴を誇張して描くことが得意でした。しかし、あまりにも独特過ぎて、人気は今ひとつだったようです。写楽は1794年5月から1795年の2月まで10か月しか活動しませんでした。このため今では、写楽は誰か別の画家が異名を使って活動したのではないかと考えられています。写楽は謎の人物なのです。本当はいったい誰だったのか、今でも明らかになっていません。 (写真 "大谷鬼次の江戸兵衛" 東洲斎写楽)


北斎(ほくさい)と広重(ひろしげ)

hokusai写楽の後は、「かつしか・ほくさい」(葛飾北斎)という画家が登場します。彼は「ふがくさんじゅうろっけい(富嶽三十六系)」という風景画のシリーズを描きます。これは富士山の見える景色ばかりを36枚描いたものです。当時は旅行ブームで、国内旅行をする人が多かったため、北斎の浮世絵への関心も高まりました。当時は写真もビデオもなく、もちろんTVもありませんでした。このため、各地の様子を描いた浮世絵のことを「名所絵」(めいしょえ)と呼びました。今の旅行誌に相当します。 (ภาพ คาซึชิกะ โฮขุไซ "冨嶽三十六景 尾州不二見原" 葛飾北斎)

hokusai 北斎はとても才能が豊かな人でした。90歳まで長生きして、風景画の他にも、妖怪を描いた「百物語」(ひゃくものがたり)や絵の手本をまとめた北斎漫画(ほくさいまんが)など多種多様な作品を残しました。最も偉大な浮世絵画家との評価されることもあります。 (写真 "北斎漫画" 葛飾北斎)

hiroshigeこの北斎の影響を受けたのが、「あんどう・ひろしげ(安藤広重)」でした。彼は、江戸(今の東京)から京都まで宿場町の様子を描いた「とうかいどう・ごじゅうさんつぎ(東海道五十三次)」を完成させます。今では新幹線で2時間30分ですが、当時は歩いて53日かかったのです。江戸幕府(当時の日本政府)は、庶民が遠くに旅することを規制していましたが、一生に一度だけ伊勢神宮(いせじんぐう)を参拝することを認めていました。江戸から伊勢神宮までは、東海道を通るため、広重の「とうかいどうごじゅうさんつぎ」は、旅行ガイドとしても重宝されたようです。 (写真 "東海道五十三次之内 日本橋" 安藤広重)


欧州で浮世絵ブーム

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"ラ・ジャポネーズ" 1876年 クロード・モネ

1968年に日本では明治維新という革命が起きて、社会が一気に近代化に向かいます。また、それまで日本は鎖国をして国際社会との交流は限定的でしたが、明治維新前後に国際化も進みます。この日本の国際化の波に乗って、日本文化が世界に知られるようになり、欧州では「ジャポニズム」と呼ばれる日本ブームを巻き起こし、大きな文化的影響を与えました。それは「ルネッサンス」に相当するとさえ言われます。

「ジャポニズム」の起きたきっかけはパリ万博でした。1867年と1878年にパリ万博が開催された時に、日本政府は多くの美術・工芸品を出展しました。それが欧州の人々にとって、とても斬新で、独特に見えたのです。その中に浮世絵もありました。

浮世絵は、それまでの欧州の絵画とは全く違っていました。まだ写実主義が中心だった欧州で、極端に単純化された浮世絵は、とても独特な絵画だったのです。これに、新しい絵画の手法を探していた欧州の若い画家たちは大きな影響を与えました。彼らは後に欧州絵画の「印象派」として育っていきます。その代表的な画家はゴッホ、モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、ゴーギャンらです。

hiroshige日本ファンとして特に有名なのはゴッホです。彼は広重の浮世絵を模写した作品を複数出しています。また、浮世絵収集家の肖像画もあります。その他の画家でも、描写の単純化、明るい絵画、遠方からの視点、陰影の不在など、それまでとは違う新たな表現方法を使うようになりました。それらは、浮世絵の特徴であり、欧州の絵には無かったものでした。 (写真 "タンギー爺さん" 1887年 ビンセント・バン・ゴッホ)

こうして世界的に人気が出てきた浮世絵でしたが、20世紀に入ると作られなくなっていきました。印刷技術が発達し、新聞や写真が普及して、木版画を使う「浮世絵」の手法が古くなったからです。

syaraku一方で、「ジャポニズム」の象徴である浮世絵の人気は今でも続いています。過去に作られた浮世絵の収集家は多く、本物の浮世絵は安いもので数万円、有名作品は数千万円もします。これまでの最高は、2009年にパリで開かれたオークションで写楽の浮世絵 "嵐竜蔵の金貸石部金吉" が39万6000ユーロで落札されました。 (写真 "嵐竜蔵の金貸石部金吉" 東洲斎写楽)

もちろん、手頃な価格の復刻版やポスターなどが出回っており、日本レストランなどに飾ってあったりします。浮世絵は100年以上を経ても、その斬新さと独特さで、人々の目を楽しませてくれるのです。By Noboru

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